日本では、個人よりも全体のメリットを重視する傾向があります。
そのため、それに沿って世論が形成される傾向があり、これは法的な解釈に影響する場合もあります。
そこで、今回は法律とその解釈の話をします。
法治国家
近年、公共の福祉や幸福追求権などの日本国憲法の定義する法律の概念は、全体のメリットを損なわない限りといった前提を強調しすぎた論調が巷間に流布されています。
ところが、そうした法的解釈によると日本国憲法が保障している社会保障が新たに給付されにくくなったり、価値観の選択を制限しそうになったりするようなことが起きる瑕疵があります。
ただし、忘れてはいけないのは、そもそも日本国は法治主義の法治国家だということです。
だからこそ、日本でも言論の自由や表現の自由は保障されていますが、先ほどの法的解釈について、誤謬ではなくても偏向していると考えられやすいところを中心に私見を添えてみます。
こうした話題になると、センシティブだと感じられる人もいるかもしれません。
しかし、『こういう解釈はいかがですか』という具合に話をする程度です。
さしあたり、『私はこう思います』という意見の一つのすぎず、説明していることに関して『良い・悪い』や『許す・許さない』ということにまで言及してヒートアップさせるつもりはありません。
というわけで、価値観が合わないところはスルーしてください。
公共の福祉とは
まず、公共の福祉について説明します。
社会国家的な公共の福祉の解釈には、経済的な権利を統制するニュアンスがあります。
他方で、近代専制国家から近代市民国家に移ったことで、公共の福祉は体制から市民の自由を擁護するニュアンスが高くなったという側面があります。
それと、公共の福祉の定義する『公共』のなかには個人も含まれていると考えることによって、個人が自分の福祉を追求する権利も含まれていると解釈することもできるという話もあります。
事実、先進諸国の人の感覚では高齢者以外の社会保障の利用者にはだいたい『ああ、自分の幸福を追求して生きている人たちね』といった見方が多いのが実情です。
近年の日本の世論は、これにやや加わるようになりました。
幸福追求権とは
次に、幸福追求権について説明します。
幸福追求権は、自由権が本質になっていて個人の尊厳の原理にもとづいています。
だからこそ、幸福追求権には個人の基本権として明文化されていない諸権利が含まれています。
たとえば、プライバシー権や人格権や環境権や幸福追求権や自己決定権も含まれていることになります。
そうはいっても、やみくもに逆ギレする生活保護の受給者、また残虐なテロによって人権を蹂躙された人たちのニュースを見ると筆者は困惑することがあります。
所感
さて、先に説明してきた法律の概念に関係することは、運用する側の主観に左右される傾向もあります。
ついでにいうと、偏向した情報に依拠してシステムを運用したりすれば、問題が生じる可能性もあります。
けれども、すこし前から筆者はこう思うようになりました。
日本の法律の条文は、細部がやや曖昧になっていると解釈できるところもありますが、しかしそれはあえてそうしていることで運用する側にも適応対象者にも、理性的になることを求めているところもあるのではないかと。
だとすれば、これには日本が高信頼社会でしなやかな和の国だということも関係しているのではないでしょうか?